嘉慶帝の人物データ
- 生年
- 1760年11月13日
- 在位
- 1796年2月9日〜1820年9月2日
- 没年
- 1820年9月2日61歳(数え年)長生き順同率33位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓愛新覚羅諱顒琰廟号仁宗諡号睿皇帝元号嘉慶呼び名の見方
出典
- 在位
- 清史稿 本紀十六(仁宗本紀)/本紀十五(高宗本紀六)
- 死因
- 清史稿 本紀十六(仁宗本紀)
- 即位経路
- 清史稿 本紀十六(仁宗本紀)
生涯
どんな皇帝か
清史稿の論は、倹約を重んじ政務に勤めたことを治世の大本に数えつつ、詔を重ねて意見を求めても君臣が率直に言い合う気風は見られなかったと嘆く。
即位まで
乾隆帝の第十五子で、1789年に嘉親王に封じられた。1795年に皇太子に立てられ、1796年に乾隆帝が太和殿で玉璽皇帝の印。皇帝の位のしるしを授けて即位させた。乾隆帝は太上皇帝位を子に譲った前の皇帝の称号となったあとも政治を執り続けた。皇子のころから和珅の奸悪を知っていたが、即位後も父が高齢なので急に事を起こさず、なお寛大に扱った。
治世と最期
即位したその月に、湖北で教徒が兵を挙げた。1799年に乾隆帝が没して自ら政治を執り始めると、すぐ和珅を獄に下し、同じ月のうちに死を賜った。誅したのちは、和珅に推挙された者などを追及せず、家産がまだ隠されているという訴えも退けた。同じ年、日月と五星が並ぶ瑞祥良いことが起こる前ぶれとされたしるしを申し出られると、たまたま合っただけで戦乱も止んでいないと退けた。同じ年、朝に出るのが遅いなどと上書君主に意見を書いて差し出すことした洪亮吉に怒り、死罪を免じて伊犁へ流した。翌年の旱魃では、亮吉を罰してから意見を言う者が減ったと詔し、亮吉を赦して郷里へ帰らせた。
親政君主が自分で政治を執ることの後半には、自身や紫禁城が賊に襲われるなかで、倹約を説き、直言を求めた。1803年、宮に戻るところを陳徳に襲われ、4日後に、狂犬と見なして深く追及するな、恥じるのは教化が行き届かないことだ、律に従って処断せよと詔し、その日に陳徳と2人の子が誅された。1809年には自ら崇倹詩を作って廷臣に示した。1813年、留守中に林清の一派数十人が紫禁城へ押し入り、皇次子が鉄砲で賊を倒した。帝はこれを漢・唐・宋・明にも無かったことだと恥じる詔を出した。1818年、暴風で砂塵が立ちこめると、自分の政務の不明のせいだとして直言を求めた。3日後には、心を同じくする臣が何人いるか、面と向かって諫めず陰で言うと嘆いた。
1820年、木蘭へ向かう途中で熱河の避暑山荘で病み、夕方に危篤となって、その夜に没した。危篤のなか大臣たちが箱を開け、1799年の自筆の書によって皇次子が後継と示された。
史料について
和珅が倒れて嘉慶帝が肥えたという俗諺は、清史稿にも嘉慶実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録にも見えない。病みついた日を、清史稿の仁宗本紀は避暑山荘に着いた翌日、宣宗本紀と嘉慶実録は着いた日とする。箱を開けた場面は、宣宗本紀と道光帝の実録による。雷に打たれて死んだという話は、清史稿の仁宗本紀・宣宗本紀にも、実録の死の前後の記事にも無い。
嘉慶帝とつながる皇帝

勢力図
清の勢力図で見る
1796–1820年の地図に、嘉慶帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱13・皇后2・改元1
- 皇后1796年2月喜塔拉氏を皇后に立てる(即位直後)。
- 反乱1796年2月〜1804年10月川楚教匪・
白蓮教起義 - 改元1796年2月9日元号を「嘉慶」とする
- 反乱1797年貴州南籠仲苗夷起義
- 皇后1801年鈕祜禄氏を皇后に冊立(のちの孝和睿皇后)。
- 反乱1801年雲南青苗楊文泰起義
- 反乱1802年安徽宿州盗匪
- 反乱1802–1809年海盗蔡牽の乱
- 反乱1806年陝西寧陝鎮新兵陳逢順の乱
- 反乱1807年陝西瓦石坪新兵滋事
- 反乱1813年天理教(八卦教)李文成・
林清起義(癸酉の変、紫禁城襲撃含む) - 反乱1815年四川中瞻対土司洛布七力の乱
- 反乱日付不詳苗疆之役(石柳鄧・呉八月ら苗民反乱の残余)
- 反乱日付不詳雲南倮夷起義
- 反乱日付不詳雲南枲僳族恆乍綱起義
- 反乱日付不詳雲南夷匪の乱
清の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
清・
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