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乾隆帝の肖像画

清第6代

乾隆帝弘暦

在位 1735–1795年(60年123日)1735年10月8日 〜 1796年2月8日 ( 1795年12月30日まで)

日本は江戸時代

1755年にジュンガル、1759年に回部を平定し、清の領土を西へ大きく広げた皇帝である。

乾隆帝の人物データ

生年
1711年9月25日
在位
  • 1735年10月8日〜1796年2月8日 1795年12月30日まで
60年123日長い順2位/365人25歳で即位(数え年)1795年に嘉慶帝に位を譲り(内禅)、4年後の1799年に没
没年
1799年2月7日89歳(数え年)長生き順1位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
次代
呼び名
姓愛新覚羅諱弘暦廟号高宗諡号純皇帝元号乾隆呼び名の見方

出典

在位
清史稿 本紀十〜十五(高宗本紀一〜六)
死因
清史稿 本紀十五(高宗本紀六)
即位経路
清史稿 本紀十(高宗本紀一)

生涯

どんな皇帝か

清史稿は国の勢いが最も盛んだった時代の君主として讃え、晩年は政治に倦んで寵臣に目を塞がれたと惜しんでいる。

即位まで

雍正帝の四男で、少年のころ祖父の康熙帝にかわいがられて宮中で学び、巻狩で熊に突進されても動じなかった。康熙帝は熊を撃ち取ったあと、この子は命が貴く福は自分を超えるだろうと語ったとは記す。雍正帝は即位の翌年、跡継ぎの名を書いて封をし、正大光明と書かれた額の裏に納めておいた。1735年に雍正帝が亡くなると、重臣たちがその封を開き、乾隆帝が位を継いだ。

治世と最期

最初の皇后の孝賢皇后は珠玉を身に着けない倹約な人で、乾隆帝は深く重んじた。1748年、の帰りの船で皇后が亡くなると、乾隆帝はひどく嘆き、道を急いで都へ戻り、12日のあいだ白い喪服で過ごした。次の皇后の那拉氏は、1765年の江南への巡幸の途中、杭州で帝に逆らって自分の髪を切った。乾隆帝は那拉氏を先に都へ帰し、翌年に亡くなると皇后より一段低いの格で弔い、そののち皇后を立てなかった。1778年、跡継ぎと皇后を立て、自らを責める詔を出すようした金従善には、断髪した那拉氏を廃しもしなかった自分に何の罪があるのかと答え、金従善は王大臣の議で斬罪とされた。

母の皇太后には孝行を尽くしたが、家の決まりと国の体面も守ろうとした。1773年には四庫全書を編む責任者を任じ、1793年には熱河の離宮でイギリスの使節マカートニーに会っている。

晩年に重く用いた和珅について、和珅伝は、乾隆帝が事あるごとに抑えたが和珅は巧みに取り繕ってますます勝手にふるまったと記す。1795年に十五男の嘉親王を皇太子に立てて翌年に位を譲ったが、その後もとして大事を決め続けた。1799年に乾隆帝が亡くなると、嘉慶帝は5日後に和珅を獄に下し、同じ月のうちに死を命じた。

乾隆帝とつながる皇帝

あわせて読む清の後宮の位皇后から答応まで8つの位と定員、実際にいた人清の勢力図(1735年)

勢力図

清の勢力図で見る

1735–1795年の地図に、乾隆帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱16・皇后2・改元1
  1. 改元1735年10月18日元号を「乾隆」とする
  2. 反乱1737年貴州定番州苗阿沙の乱
  3. 皇后1738年嫡妃富察氏を皇后に冊立(孝賢皇后)。
  4. 反乱1740年湖南綏寧・広西義寧苗瑶の乱
  5. 反乱1747–1749年大金川の乱(第一次金川の役)
  6. 反乱1749年四川雑谷土司蒼旺の乱
  7. 皇后1750年皇貴妃那拉氏(烏喇那拉氏、嫻皇貴妃)を皇后に冊立。
  8. 反乱1750–1751年チベット珠爾默特那木扎勒の乱
  9. 反乱1757–1759年回部大小和卓の乱
  10. 反乱1765年烏什事件
  11. 反乱1770年貴州古州苗の乱
  12. 反乱1771–1776年大小金川の乱(第二次金川の役)
  13. 反乱1774年山東王倫(清水教)起義
  14. 反乱1781年甘粛蘇四十三回変
  15. 反乱1784年甘粛田五・石峰堡回変
  16. 反乱1786–1788年台湾林爽文起義
  17. 反乱1787年湖南鳳凰苗の乱
  18. 反乱1795年台湾陳周全起義
  19. 反乱1795年貴州湖南苗民大起義(乾嘉苗民起義)

清の歴代皇帝

歴代12人の一覧
  1. 第1代ヌルハチ皇帝を名乗っていない1616–1626年

年表

清・中華帝国の時代を年表で見る

清が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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