乾隆帝の人物データ
- 生年
- 1711年9月25日
- 在位
- 1735年10月8日〜1796年2月8日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 1795年12月30日まで
- 没年
- 1799年2月7日89歳(数え年)長生き順1位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓愛新覚羅諱弘暦廟号高宗諡号純皇帝元号乾隆呼び名の見方
出典
- 在位
- 清史稿 本紀十〜十五(高宗本紀一〜六)
- 死因
- 清史稿 本紀十五(高宗本紀六)
- 即位経路
- 清史稿 本紀十(高宗本紀一)
生涯
どんな皇帝か
清史稿は国の勢いが最も盛んだった時代の君主として讃え、晩年は政治に倦んで寵臣に目を塞がれたと惜しんでいる。
即位まで
治世と最期
最初の皇后の孝賢皇后は珠玉を身に着けない倹約な人で、乾隆帝は深く重んじた。1748年、巡幸皇帝が各地を見て回ることの帰りの船で皇后が亡くなると、乾隆帝はひどく嘆き、道を急いで都へ戻り、12日のあいだ白い喪服で過ごした。次の皇后の那拉氏は、1765年の江南への巡幸の途中、杭州で帝に逆らって自分の髪を切った。乾隆帝は那拉氏を先に都へ帰し、翌年に亡くなると皇后より一段低い皇貴妃皇后の次に位の高い妃の位の格で弔い、そののち皇后を立てなかった。1778年、跡継ぎと皇后を立て、自らを責める詔を出すよう上書君主に意見を書いて差し出すことした金従善には、断髪した那拉氏を廃しもしなかった自分に何の罪があるのかと答え、金従善は王大臣の議で斬罪とされた。
母の皇太后には孝行を尽くしたが、家の決まりと国の体面も守ろうとした。1773年には四庫全書を編む責任者を任じ、1793年には熱河の離宮でイギリスの使節マカートニーに会っている。
晩年に重く用いた和珅について、和珅伝は、乾隆帝が事あるごとに抑えたが和珅は巧みに取り繕ってますます勝手にふるまったと記す。1795年に十五男の嘉親王を皇太子に立てて翌年に位を譲ったが、その後も太上皇帝位を子に譲った前の皇帝の称号として大事を決め続けた。1799年に乾隆帝が亡くなると、嘉慶帝は5日後に和珅を獄に下し、同じ月のうちに死を命じた。
乾隆帝とつながる皇帝

勢力図
清の勢力図で見る
1735–1795年の地図に、乾隆帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱16・皇后2・改元1
- 改元1735年10月18日元号を「乾隆」とする
- 反乱1737年貴州定番州苗阿沙の乱
- 皇后1738年嫡妃富察氏を皇后に冊立(孝賢皇后)。
- 反乱1740年湖南綏寧・
広西義寧苗瑶の乱 - 反乱1747–1749年大金川の乱(第一次金川の役)
- 反乱1749年四川雑谷土司蒼旺の乱
- 皇后1750年皇貴妃那拉氏(烏喇那拉氏、嫻皇貴妃)を皇后に冊立。
- 反乱1750–1751年チベット珠爾默特那木扎勒の乱
- 反乱1757–1759年回部大小和卓の乱
- 反乱1765年烏什事件
- 反乱1770年貴州古州苗の乱
- 反乱1771–1776年大小金川の乱(第二次金川の役)
- 反乱1774年山東王倫(清水教)起義
- 反乱1781年甘粛蘇四十三回変
- 反乱1784年甘粛田五・
石峰堡回変 - 反乱1786–1788年台湾林爽文起義
- 反乱1787年湖南鳳凰苗の乱
- 反乱1795年台湾陳周全起義
- 反乱1795年貴州湖南苗民大起義(乾嘉苗民起義)
清の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
清・
清が
