
太平天国の乱と英仏との戦争に追われ、北京を離れた熱河の行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿で没した清の皇帝である。
咸豊帝の人物データ
- 生年
- 1831年7月17日
- 在位
- 1850年3月9日〜1861年8月22日
- 没年
- 1861年8月22日31歳(数え年)長生き順同率181位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓愛新覚羅諱奕詝廟号文宗諡号顕皇帝元号咸豊呼び名の見方
出典
- 在位
- 清史稿 本紀二十(文宗本紀)
- 死因
- 清史稿 文宗本紀
- 即位経路
- 清史稿 文宗本紀
生涯
即位まで
道光帝の第四子で、生母の孝全皇后を早くに失い、のちの恭親王奕訢の母に育てられた。杜受田に学び、弟の奕訢とは同じ書房で槍法と刀法をともに作った。1850年、重態の道光帝が箱の御書皇帝が自ら書いた文書で皇四子を皇太子とした日に父が没し、まもなく即位した。
史料について
南苑の巻狩りで、春は獣が子を育てる時期だとして一本の矢も射ず、道光帝を喜ばせて後継ぎが密かに決まったという話は、清史稿の杜受田伝に載り、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分には無い。
治世と最期
皇子のころから憎んでいた穆彰阿を即位の年に罷免したが、三朝の旧臣として重い罰は避けた。曾国藩が帝自身を名指しして直言すると、ねぎらいの詔で答えた。1851年に洪秀全が太平天国を号し、1853年に江寧を陥した。
肅順への信任が増すなか、科挙学問の試験で役人を選ぶ制度の不正で柏葰を免職し、1859年の結審では許そうとしたが、肅順らに阻まれて処刑を認めた。1860年、英仏軍が天津を陥して北京に迫ると、円明園を出て熱河へ移った。行宮の修理を命じ、反対した宝鋆に怒り、管轄の三山が略奪されると降格したが、まもなく戻した。英仏軍は円明園を焼いた。帝は、講和をまとめて処分を願い出た奕訢に、処分は無用と諭した。
1861年、咳と血痰で静養が要ると手詔皇帝が自ら書いた命令の文書に書き、病が重くなって行宮で没した。死の前に皇長子を皇太子に立て、肅順ら8人に政務を補佐させた。
史料について
曾国藩へのねぎらいの詔は曾国藩伝が書き、実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録の上諭は迂遠で過激とも評しつつ叱らなかったとする。暑気あたりの下痢が長引いたことは実録の遺詔皇帝が死に際に残した命令に見え、清史稿は病名を書かない。柏葰の処刑を、本紀は載垣・端華の擬律どおりとだけ書き、柏葰伝は帝が法は許しがたいと涙したとする。熱河行きを、肅順伝は肅順の画策とし、文祥伝は僧格林沁の密疏が請うたとする。清史稿の論は、安らかな日は無かったが賢人を任じてよく対応したとたたえる。
咸豊帝とつながる皇帝

勢力図
清の勢力図で見る
1850–1861年の地図に、咸豊帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱13・皇后1・改元1
- 反乱1850年湖南李沅発の乱
- 改元1850年3月9日元号を「咸豊」とする
- 反乱1851–1856年広東各地の会匪・
土匪動乱(英徳・ 郴州・ 羅鏡・ 帰善) - 反乱1851年太平天国
- 反乱1851年捻軍
- 反乱1853年福建海澄会匪(小刀会)厦門占拠事件
- 反乱1853年広西全州土匪の乱
- 反乱1855年貴州雷台山・
楊鳳の乱 - 反乱1855–1860年各省の小規模地方反乱群(浙江・
福建・ 山西・ 四川・ 甘粛・ 雲南) - 反乱1855年貴州苗族・
教匪起義 - 反乱1856年広西右江鎮標兵変
- 反乱1856年雲南回変(回民起義)
- 反乱1857年喀什噶爾(英吉沙爾)回城陥落・浩罕介入事件
- 反乱1861年熱河朝陽盗匪
- 皇后日付不詳皇后を立てる
清の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
清・
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