
後継者の名を密封して正大光明の額の裏に納め、軍機大臣清で、皇帝のそばで国の大事を扱った重臣を置いた清の皇帝である。
雍正帝の人物データ
- 生年
- 1678年12月13日
- 在位
- 1722年12月27日〜1735年10月8日
- 没年
- 1735年10月8日58歳(数え年)長生き順同率45位/266人
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 呼び名
- 姓愛新覚羅諱胤禛廟号世宗諡号憲皇帝元号雍正呼び名の見方
出典
- 在位
- 清史稿 本紀九(世宗本紀)
- 死因
- 清史稿 本紀九(世宗本紀)/乾隆帝上諭・
造辦處活計檔(学術的傍証) - 即位経路
- 清史稿 本紀九(世宗本紀)
生涯
どんな皇帝か
清史稿の論は、寛大な康熙帝の政治を厳明さで受け継いだとし、兄弟に冷たいと疑われたが、帝の情の薄さだけによるのではないと述べる。同じ論は、州県の収入を削れと言う近臣を、州県の官をしたこともないのに難しさが分かるかと退けた言を称える。
即位まで
康熙帝の第四子で、1709年に雍親王に封じられた。清史稿の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分によれば、1722年に危篤の康熙帝に呼ばれて位を継ぐ詔を宣され、その死後に即位した。康熙帝の本紀は死を記すだけで、清史稿には後継者を定めた遺詔皇帝が死に際に残した命令の条文も、第十四子への伝位皇帝の位を次の人に譲り渡すことを書き換えた話も無い。清史稿の列伝も皇子たちと隆科多が臨終に召されたと記すが、第四子に継がせると告げた文面は清史稿には無く実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録にある。のちに帝自身が、先帝の没したとき旨を受けた大臣は隆科多ひとりと述べた。隆科多の罪状には、そのとき御前にいないのに匕首を帯びたと偽った一条もある。
治世と最期
1723年、後継者の名を密封して額の裏に納めたと告げ、先帝のときは慌ただしく一言で決まったと語った。1725年、年羹堯が上奏文で朝乾夕惕を夕惕朝乾と書くと、朕を朝乾夕惕と認めないのだと厳しく責めた。弟の胤禩には、才は惜しむとしつつ責める諭を下し、1726年に天や祖先や朕との縁を自ら絶ったとして皇族から外した。1725年に年羹堯に死を賜り翌年に胤禩を阿其那と改名させ、1727年に隆科多を終身禁錮とした。聖祖諸子伝の論は、胤禩らの獄を雍正帝が後に悔いたと書く。
1727年、子の弘時を放縦で慎みがないとして皇族の籍から削った。1729年の曾静の供述を大義覚迷録にまとめて江寧などで説かせ、曾静を赦したが、乾隆帝の即位後に処刑された。1730年、弟の允祥の危篤に自ら見舞ったが間に合わず、朝政を3日止め、8年を一日のように仕えたと述べた。翌年に皇后が没すると、病み上がりで納棺に臨もうとして止められ、40年余り孝順で変わらなかったと述べた。
1735年、円明園で病に倒れ、翌日危篤となって第四子の弘暦に位を伝え、翌日に没した。清史稿は死因を書かず、丹薬不老長生を願って鉱物を練って作った薬や毒を思わせる記述も無い。清の実録には、即位した乾隆帝が、先帝が炉火修錬の術を試しに見ようと西苑に置いた張太虚らを、薬は用いなかったとして郷里へ帰らせた記事がある。この記事などから丹薬中毒を推す研究があり、このサイトは死因を諸説ありとする。
雍正帝とつながる皇帝

勢力図
清の勢力図で見る
1722–1735年の地図に、雍正帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱15・皇后1・改元1
- 改元1722年12月27日元号を「雍正」とする
- 反乱1723–1724年羅卜藏丹津の乱(青海)
- 皇后1724年皇后を立てる
- 反乱1724–1727年仲苗の乱
- 反乱1727年阿爾布巴の乱(西藏)
- 反乱1727–1730年烏蒙苗党の乱(雲南烏蒙)
- 反乱1728年蒗蕖の乱(雲南)
- 反乱1729年東川逆苗の乱(雲南東川)
- 反乱1729年米貼逆苗の乱(四川)
- 反乱1729年広西八達寨逆苗の乱
- 反乱1729年建昌喇汝窩番賊の乱(四川建昌)
- 反乱1729年雷波叛苗の乱(四川雷波)
- 反乱1729–1733年丹江・
九股苗の乱(貴州) - 反乱1732年台湾北路西番の滋事
- 反乱1732年思茅・
元江土夷の普洱郡城侵攻(雲南) - 反乱1733–1734年普思苗人刁興国の乱(雲南普思)
- 反乱1735年7月〜1735年10月古州・
台拱苗疆大起義(貴州)
清の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
清・
清が