
一度皇太子を廃されてから位に就き、万貴妃皇帝の妃の中でも高い位の一つを寵愛して西廠明で皇帝に直属した秘密の取り締まり役所を置き、宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の汪直に権をふるわせた明の皇帝である。
成化帝の人物データ
- 生年
- 1447年
- 在位
- 1464年2月28日〜1487年9月9日
- 没年
- 1487年9月41歳(数え年)長生き順同率126位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓朱諱見深廟号憲宗諡号純皇帝元号成化呼び名の見方
出典
- 在位
- 明史 本紀第十三 憲宗一(即位)/本紀第十四 憲宗二(崩御)
- 死因
- 明史 本紀十四(憲宗二)
- 即位経路
- 明史 本紀十三(憲宗一)
生涯
即位まで
治世と最期
景泰帝の廃位を蒸し返した黎淳を、景泰のことは過ぎたことだと叱った。于謙の冤罪をあわれんでその官を戻し、祭祀を賜った。1468年、父の皇后の銭太后との合葬を生母が拒むと、礼に背くのも親に逆らうのも不孝だと言って別の葬地を探らせたが、百官朝廷のすべての役人が泣き続けて合葬が許され、墓道は別にされた。1476年の初めには景泰帝の帝号皇帝という称号を戻した。
万氏は東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人のころから仕えた年上の女性で、帝の意を迎えるのが巧みだった。即位の年に呉皇后が廃された。帝が出歩くたびに軍装で先導し、1466年に第一皇子を生んで貴妃に封じられたが、皇子は早くに亡くなった。寵を独り占めにした万貴妃は、身ごもった後宮の女性に子を堕ろさせた。1475年、宦官の張敏が子がいると打ち明け、懐恩が西内でひそかに育てられていると明かすと、帝は皇子を迎えて、自分に似ていると泣いた。母の紀氏は同じ年に急死した。
林俊を殺そうとしてかばう懐恩に硯を投げつけたが、怒りが解けると林俊を放した。妖人の事件ののち外の事を知りたがって汪直に探らせ、1477年に西廠を置いた。1482年に西廠を罷め、翌年に汪直も退けた。万貴妃は1487年に急病で没し、同じ年に成化帝も病んで没した。
史料について
呉皇后の廃位を、万貴妃伝は万氏の讒言によるとし、呉廃后伝は呉后が万氏を杖打ちしたことや選定の差し替えを理由に挙げる。紀氏の死を、紀氏の伝は貴妃のしわざとも自ら縊れたともいうと二説を並べ、万貴妃の伝は貴妃のしわざと書く。林俊伝は殺そうとした話を書かず、林俊は左遷で済んだとする。成化帝の病を、実録皇帝一代ごとの出来事を日を追ってまとめた記録は下痢とする。本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の賛は、景泰帝と于謙への処置を人君の度量とたたえつつ、明断な帝も長く惑わされたとして后妃と宦官の禍を戒める。
成化帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱10・皇后2・改元1・大赦4
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1464年2月即位に伴う大赦。
- 改元1464年2月28日元号を「成化」とする
- 皇后1464年8月呉氏を皇后に冊立。
- 皇后1464年11月王氏を皇后に冊立。
- 反乱1465–1466年広西大藤峡瑶乱(初回)
- 反乱1465–1468年四川山都掌蛮乱
- 反乱1466年荊襄劉通・石龍之乱
- 反乱1466–1483年広西瑶乱(断藤峡復起〜再度鎮圧)
- 反乱1467年靖州苗乱(初回)
- 反乱1468年満俊之乱(開城賊)
- 反乱1470–1471年荊襄流民再起之乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1471年皇子祐極の立太子に伴う大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1475年皇子祐樘(後の孝宗)の立太子に伴う大赦。
- 反乱1476年靖州苗乱(再発)
- 反乱1476年湾溪苗乱
- 反乱1477年松潘疊溪苗乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1485年星変を機とした大赦。
明の歴代皇帝
歴代16人の一覧- 第1代洪武帝朱元璋1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年1457–1464年(復位)病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1566年病死
- 第13代隆慶帝1566–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自害
年表
明・
明が