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南北朝の勢力図

420–589年・この地図について

南北朝の勢力図・420年(宋の建国)

地図を読み込んでいます…

420年

節目の年: 宋の建国

この年の動き

地図の城の点か、下の城の名前を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。地図は2本指か+で拡大でき、拡大すると小さな城も出ます。

この時代の流れ

  1. 宋と北魏420–493年

    • 南北朝の勢力図・420年(宋の建国)
      420年宋の建国

      宋、北魏、夏、西秦、北燕、北涼

      勢力と皇帝
      • 宋 本拠は建康、洛陽・江陵・虎牢など地図の城76か所。皇帝は武帝(劉裕)。
      • 北魏 本拠は平城、鄴・平陽・晋陽など地図の城21か所。皇帝は明元帝(拓跋嗣)。
      • 夏 本拠は統万、長安・蒲坂など地図の城9か所。皇帝は武烈帝(赫連勃勃)。
      • 西秦 本拠は枹罕、地図の城6か所。
      • 北燕 本拠は龍城、地図の城3か所。
      • 北涼 本拠は姑臧、地図の城3か所。
      • ほかに 仇池、高句麗、西秦・姚艾、西涼・李恂
      • 420年に皇帝の位にあった人の一覧
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
    • 南北朝の勢力図・439年(北魏が華北を統一)
      439年北魏が華北を統一

      宋、北魏、吐谷渾、仇池、高句麗、禿髪保周

      勢力と皇帝
      • 宋 本拠は建康、江陵・懸瓠・義陽など地図の城68か所。皇帝は文帝(劉義隆)。
      • 北魏 本拠は平城、洛陽・鄴・龍城など地図の城48か所。皇帝は太武帝(拓跋燾)。
      • 吐谷渾 地図の城3か所。
      • 仇池 仇池など地図の城2か所。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 禿髪保周 地図の城1か所。
      • ほかに 北涼・沮渠無諱
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
  2. 斉梁と北魏494–533年

    • 南北朝の勢力図・494年(北魏が洛陽へ遷都)
      494年北魏が洛陽へ遷都

      北魏、斉、高句麗、仇池・楊氏

      勢力と皇帝
      • 北魏 本拠は洛陽、平城・鄴・龍城など地図の城70か所。皇帝は孝文帝(元宏)。
      • 斉 本拠は建康、江陵・義陽・宛など地図の城55か所。皇帝は明帝(蕭鸞)。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 仇池・楊氏 地図の城1か所。
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
  3. 北魏の分裂534–556年

    • 南北朝の勢力図・534年(北魏が東西に分かれる)
      534年北魏が東西に分かれる

      梁、東魏、北魏、高句麗、樊子鵠、東魏・曹泥

      勢力と皇帝
      • 梁 本拠は建康、江陵・義陽・襄陽など地図の城52か所。皇帝は武帝(蕭衍)。
      • 東魏 本拠は鄴、洛陽・龍城・虎牢など地図の城42か所。皇帝は孝静帝(元善見)。
      • 北魏 本拠は長安、統万・上邽・姑臧など地図の城23か所。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 樊子鵠 地図の城1か所。
      • 東魏・曹泥 地図の城1か所。
      • ほかに 仇池
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
    • 南北朝の勢力図・549年(侯景が建康を落とす)
      549年侯景が建康を落とす

      東魏、梁、西魏、侯景、高句麗、梁・岳陽王蕭詧

      勢力と皇帝
      • 東魏 本拠は鄴、洛陽・龍城・虎牢など地図の城47か所。皇帝は孝静帝(元善見)。
      • 梁 尋陽・夏口・番禺など地図の城32か所。皇帝は簡文帝(蕭綱)。
      • 西魏 本拠は長安、統万・上邽・姑臧など地図の城28か所。皇帝は文帝(元宝炬)。
      • 侯景 本拠は建康、広陵など地図の城7か所。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 梁・岳陽王蕭詧 地図の城は襄陽の1か所。
      • ほかに 梁・荘鉄、蔡路養、梁・湘東王蕭繹、梁・河東王蕭誉、梁・李洪雅、仇池
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
  4. 北斉と北周557–580年

    • 南北朝の勢力図・557年(陳と北周が建つ)
      557年陳と北周が建つ

      北斉、北周、陳、梁・王琳、高句麗、後梁

      勢力と皇帝
      • 北斉 本拠は鄴、洛陽・平城・龍城など地図の城53か所。皇帝は文宣帝(高洋)。
      • 北周 本拠は長安、統万・上邽・姑臧など地図の城43か所。
      • 陳 本拠は建康、番禺・龍編など地図の城17か所。皇帝は武帝(陳霸先)。
      • 梁・王琳 尋陽・夏口・長沙など地図の城8か所。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 後梁 本拠は江陵、地図の城1か所。皇帝は宣帝(蕭詧)。
      • ほかに 爨氏
      • 557年に皇帝の位にあった人の一覧
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
    • 南北朝の勢力図・577年(北周が北斉を滅ぼす)
      577年北周が北斉を滅ぼす

      北周、陳、高宝寧、高句麗、後梁、爨氏

      勢力と皇帝
      • 北周 本拠は長安、洛陽・平城・鄴など地図の城82か所。皇帝は武帝(宇文邕)。
      • 陳 本拠は建康、鍾離・寿陽・合肥など地図の城37か所。皇帝は宣帝(陳頊)。
      • 高宝寧 龍城など地図の城2か所。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 後梁 本拠は江陵、地図の城1か所。皇帝は明帝(蕭巋)。
      • 爨氏 地図の城1か所。
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。
  5. 隋の統一581–589年

    • 南北朝の勢力図・589年(隋が陳を滅ぼす)
      589年隋が陳を滅ぼす

      隋、高句麗、爨氏

      勢力と皇帝
      • 隋 本拠は長安、洛陽・平城・鄴など地図の城122か所。皇帝は文帝(楊堅)。
      • 高句麗 地図の城1か所。
      • 爨氏 地図の城1か所。
      • 城の数は地図が拾っている城の数で、領土の広さではありません。

この地図について

宋の建国(420年)から隋の統一(589年)まで、その年の暮れにどの城をどの王朝が押さえていたかを史書から拾い、そこから勢力の範囲を描いた地図です。年を動かすと境界が動きます。城の点を押すと、その城の持ち主の移り変わりと根拠の原文が出ます。五胡十六国の勢力図とは420〜439年が重なっていて、この20年は2枚とも同じ城・同じ持ち主・同じ描き方なので、同じ年は同じ地図になります。

色の濃い帯が王朝どうしの境です。色がかすれて消えていく所は、城の支配が届いていたと言えない土地(遊牧の地・山地など)で、境を引いていません。朱の四角は、その年の暮れに皇帝・王がいた城です。年のつまみの下の帯は、上の段が北朝(東魏・西魏に割れた時期は上下2段)、下の段が南朝で、押すとその王朝の最初の年へ移ります。

この地図の作り方

史書から、主な城130か所(城や鎮が置かれる前の年は出していません。六鎮は鎮が置かれた年から、玉壁は築かれた538年から出ます)について「その年の暮れにどの王朝の刺史・太守・守将がいたか」を年ごとに拾い、持ち主が変わった年ごとに根拠の原文を付けました。根拠は資治通鑑を主に、宋書・南斉書・梁書・陳書・魏書・北斉書・周書・隋書・南史・北史で裏を取りました(持ち主が変わった年の根拠の引用は合わせて695件。すべて原文の該当行に文字どおりあることを機械で照合済み)。包囲や、その年のうちに退いた一時的な占領では持ち主を変えていません。

境界は、その城の持ち主から機械的に推定した線です。地表を4km四方に区切り、山の険しさと大河の渡りにくさを考えた「たどり着く手間」が最も小さい城の王朝に塗り分けました。どの城からも遠い土地(草原・高原・山地の諸民族の地)は塗らず、色をかすれさせています。

同じ王朝の城どうしが離れていて色が途切れるときは、ほかの王朝の土地を通らない道筋(平地で約400km以内)があれば、その道筋に沿った帯でつなぎました(城と城を結ぶ道はその王朝が通していたとみなしました)。また、四方を王朝の土地と海に囲まれた空白と、秦嶺より南の山地(今の貴州・湘西など、蛮・獠と呼ばれた人々の地)で王朝の土地に深く入り込んだ空白は、最も近い王朝の色で塗りました。まわりをほかの王朝の土地に囲まれた城(飛び地)は、その城を中心にした半径約36kmの丸で描きました(城と城の中間で塗り分けると、飛び地が実際より広い土地を持っていたように見えるため)。郡県はその内側にも置かれていましたが、地図の城の点が無いため、支配の実態は城の周りより薄いものです。

当時の境は線ではなく帯で、この地図の線もその帯のおおよその位置を示すにとどまります。

確かでないところ

  • 持ち主が変わった年の多くは原文で確かめましたが、原文が見つからず前後の記事から推した変化が42件あります(城の点を押すと「推定」と出ます)。年だけを推した変化もあります(「年は推定」)。
  • 城の点は今の市・県の位置に置きました(遺跡の正確な位置ではありません)。比定は胡三省の注によります。
  • 西平・楽都(今の青海省東部)は、北涼が滅んだ439年から530年まで、北魏と吐谷渾のどちらが城を持っていたかを書いた記事が見つからないため、城の点を出さず、どの王朝の色でも塗っていません。
  • 六鎮の地・寧州(今の雲南)・交州(今のベトナム北部)など辺境は、実際の支配がどこまで及んだか史書からは決めにくいところです。
  • 海岸線と大半の川は現代のものです。黄河の下流(後漢以来の流路)・淮河の下流(洪沢湖ができる前)・泗水・洛水だけは、当時の通過地点を結んだ概略線で描き直しました。江蘇北部の海岸は当時より東へ伸びています。
  • 後梁(江陵の梁)は、この地図では江陵1城だけで描いています。571年に北周から基・平・鄀の3州(今の湖北省当陽・荊門のあたり)を借りたことは資治通鑑にありますが、地図の城の点に入っていないため、後梁の範囲は実際より狭く出ています。
  • 北周・隋はサイトの王朝色では陳と同じ青緑で、隣り合う陳と見分けられないため、この地図だけ北周を青、隋を橙にしました(青は北魏、橙は南斉の色ですが、どちらも時期が重なりません)。北涼・北燕・西涼・西秦は、420〜439年が重なる五胡十六国の勢力図と同じ色にしています(西秦・西涼は北魏と同じ青ですが、土地は接していません)。

出典とライセンス

  • 史書の本文: 殆知閣(daizhigev20)の電子テキスト(引用は簡体字のまま)
  • 海岸線・川・湖: Natural Earth(パブリックドメイン)
  • 地形の陰影: NOAA ETOPO1(パブリックドメイン)
  • 照合に使った別の地図データ: Seshat Global History Databank「Cliopatria」(CC BY 4.0)。年代の刻みが粗く、この地図には取り込んでいません。